近況とか。
年に一度後先は考えずとりあえず美味しそうな食材を買い込んで鍋をすることにしている。
昨年までは学生の頃は下宿であったり勤め人になってからは後輩とか某大学手品サークルに場所を借りたりとかして京の都で催していたが、今年は勤め先の馴染みのある勤め人一年目の人たちと島で。
話題の流れでシルクドソレイユのDVDなんかを流してみたりしたのであるが、座の中にいた青年が「これは何が言いたいのかなぜこんな格好なのかそこに必然性はあるのか」という点について執拗に納得のいかない様子であった。
最低限の生存に必要な事柄の次には、無駄なことにこそ価値があるということを伝えてみようとしたが多分それは伝わらず。僕も無駄の極みであるところの手品に手を出したりしなかったら彼のようなものの考え方をしていたのではなかっただろうかと自問したが飲酒しているうちにどうでもよくなってきた。
その後足かけ三日三晩、独りで鍋の残りを食す羽目となり困る。
なぜ鍋は続くと二食目以降からなんだか関取気分になるのであろうか。
その直後に風邪を引く。(自覚はないのだがもしかしたら散りそうな野菊を雨から隠したり胸を開けて馬鹿をやったのかもしれない。)
寝込んだが鍋の残りがあって助かる。
今更ながら今は亡き中島らもの「ガダラの豚」を読んでみる。
文庫本三冊という分量に気圧されてこれまで手を出さなかったというか「空のオルゴール」さえ積ん読の彼方に放置していたのであったが、読み出すとなぜ今まで読まなかったのだろうかと思うぐらいで読み進めてようやく二冊目。
最近教祖らしいこともあまりやっていないのでその辺の参考にもしてみようかと漫画神の「ブッダ」とかも読みながら思った。
仕事柄というわけでもないのだけれども、日本語の成立についての本を何冊か買ってみたりする。大野晋とか。とりあえずこの人は日本語がとてもとても大好きなのであろうなと言うことはよく分かった。
基本的には門外漢なので論理展開の多少の怪しさへの懸念の他には批判材料が頭になくすっかりタミル語起源説気分であるが、某博士なんかはこの辺り本業なので日々喧々囂々しているのであろうなと想像してみたりする。(誰か九つ目の母音を見つける方向で誰か頑張ってみたりしたりはしていたりしないのだろうか。)
何冊か読んだ中で中公文庫の「日本語はいかにして成立したか」という本から、印象に残った言葉を、本の主題と直接関係があるわけではないのだけどちょっと引用してみる。
さる方曰くに「クロースアップやるなら英語が出来なきゃ駄目だよ。」ということであるが、手品に限らず、本業であるところ情報技術産業においても英語の能力が問われること甚だしく、我が身においてはそれが出来ぬことを恥じたり、多少読むぐらいはできたりなんかするとそれを誇ったりもしがちなのであるが、もしかしたらそんなことよりも恥ずべきはこの国のその分野とそれを構成する自身における未熟さなのかもしれないが、今は日本語しか分からなくとも、外国語の能力豊かなる人たちが向こうの良書を訳してくれるおかげで十二分に楽しめたりどうにかなったりするので良しとして、良いのか悪いのか。
博士といえば「高学歴ワーキングプア」を読んでみたら面白かったがわりとストライクゾーンど真ん中でそういう状況の知人も何人かいるので、どうせ新書の中のことだと考えることもできず考えないわけにもいかず。
とりあえずこの世間には思った以上に孔明の罠っぽい諸々が張り巡らされているのであり、とりあえずその一つには嵌らずに済んだのかもしれないが今後とも迂闊にジャンプとか出来ない。
そんなこんなで読めばきっとおもしろいに違いない手品洋書が枕元にいくつもあるのに優先度が下がってなかなか読み進まない。
夏の終わりに衝動で買い込んだMac miniはほぼ見事にiTunes専用機となったのであるが、光出力で音を出すとリモコンから音量調節がきかないのが如何ともしがたいのでいい感じのアンプとか買ってみようかとか致し方ないのでAppleScriptの一つや二つぐらいを覚えてみようかと思いきやRemote Buddyなるソフトウェアがとてもよい具合に要求を満たしてくれて本業であるところの情報技術産業におけるソリューションとはいかなるべきかということを若干ほのかに学んでみる。アイコンも手品的にとてもいい具合だ。
結論としてはなかなかMachintoshに何もかもを移行することもできない感じであり、壊れかけノートPCをVistaな機械に買い換え。
しまったMacBook買ってBootCampという手もあったではないか。
桂米朝師匠と筒井康隆の対談「笑いの世界」を読んでいると、ふと「乱調文学大辞典」とかをもう一度読みたくなり、いっそのこと筒井康隆全集が欲しくなる。が、さすがにしばらく我慢。
物理学関係の本を時々買ったり読んだりする。最近も五次元がどうのこうのという本を買い込んでみたが、そこに至る前段階としての三次元とは「縦」と「横」と「高さ」を持つ次元であり、それに「低さ」を加えた次元が四次元であると学んだのは偏にこの大辞典からである。五次元についての本はまだ読んでないので五つ目の次元が何であると説かれているかは知らないのだが、僕の思うところでは「分からなさ」なのではないかと思う。
それはそれとして、上方の育ちの故あろうか落語家というと米朝師匠か枝雀師匠であるのだけれども、枝雀師匠の「笑いとは緊張の緩和である」論ってどこかに書籍でまとまってたりするのですか?と知ってそうな人に聞いてみる。
とか何とかやっているうちに賞与を皮算用してお金がなくても買い物ができる魔法カードが今月も限度額一杯一杯である。
それなんて2/2?という気分であるもののベトナムよりは生存しやすい環境であるがしかし死んだ双子の兄とかはいないはずなので、もしかしてこれでは話が進まないのではないだろうかと不安になる。
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年に一度後先は考えずとりあえず美味しそうな食材を買い込んで鍋をすることにしている。
昨年までは学生の頃は下宿であったり勤め人になってからは後輩とか某大学手品サークルに場所を借りたりとかして京の都で催していたが、今年は勤め先の馴染みのある勤め人一年目の人たちと島で。
話題の流れでシルクドソレイユのDVDなんかを流してみたりしたのであるが、座の中にいた青年が「これは何が言いたいのかなぜこんな格好なのかそこに必然性はあるのか」という点について執拗に納得のいかない様子であった。
最低限の生存に必要な事柄の次には、無駄なことにこそ価値があるということを伝えてみようとしたが多分それは伝わらず。僕も無駄の極みであるところの手品に手を出したりしなかったら彼のようなものの考え方をしていたのではなかっただろうかと自問したが飲酒しているうちにどうでもよくなってきた。
その後足かけ三日三晩、独りで鍋の残りを食す羽目となり困る。
なぜ鍋は続くと二食目以降からなんだか関取気分になるのであろうか。
その直後に風邪を引く。(自覚はないのだがもしかしたら散りそうな野菊を雨から隠したり胸を開けて馬鹿をやったのかもしれない。)
寝込んだが鍋の残りがあって助かる。
今更ながら今は亡き中島らもの「ガダラの豚」を読んでみる。
文庫本三冊という分量に気圧されてこれまで手を出さなかったというか「空のオルゴール」さえ積ん読の彼方に放置していたのであったが、読み出すとなぜ今まで読まなかったのだろうかと思うぐらいで読み進めてようやく二冊目。
最近教祖らしいこともあまりやっていないのでその辺の参考にもしてみようかと漫画神の「ブッダ」とかも読みながら思った。
仕事柄というわけでもないのだけれども、日本語の成立についての本を何冊か買ってみたりする。大野晋とか。とりあえずこの人は日本語がとてもとても大好きなのであろうなと言うことはよく分かった。
基本的には門外漢なので論理展開の多少の怪しさへの懸念の他には批判材料が頭になくすっかりタミル語起源説気分であるが、某博士なんかはこの辺り本業なので日々喧々囂々しているのであろうなと想像してみたりする。(誰か九つ目の母音を見つける方向で誰か頑張ってみたりしたりはしていたりしないのだろうか。)
何冊か読んだ中で中公文庫の「日本語はいかにして成立したか」という本から、印象に残った言葉を、本の主題と直接関係があるわけではないのだけどちょっと引用してみる。
外国との文化力の落差の大きい世界ほど、外国語の能力が問題にされる。
さる方曰くに「クロースアップやるなら英語が出来なきゃ駄目だよ。」ということであるが、手品に限らず、本業であるところ情報技術産業においても英語の能力が問われること甚だしく、我が身においてはそれが出来ぬことを恥じたり、多少読むぐらいはできたりなんかするとそれを誇ったりもしがちなのであるが、もしかしたらそんなことよりも恥ずべきはこの国のその分野とそれを構成する自身における未熟さなのかもしれないが、今は日本語しか分からなくとも、外国語の能力豊かなる人たちが向こうの良書を訳してくれるおかげで十二分に楽しめたりどうにかなったりするので良しとして、良いのか悪いのか。
博士といえば「高学歴ワーキングプア」を読んでみたら面白かったがわりとストライクゾーンど真ん中でそういう状況の知人も何人かいるので、どうせ新書の中のことだと考えることもできず考えないわけにもいかず。
とりあえずこの世間には思った以上に孔明の罠っぽい諸々が張り巡らされているのであり、とりあえずその一つには嵌らずに済んだのかもしれないが今後とも迂闊にジャンプとか出来ない。
そんなこんなで読めばきっとおもしろいに違いない手品洋書が枕元にいくつもあるのに優先度が下がってなかなか読み進まない。
夏の終わりに衝動で買い込んだMac miniはほぼ見事にiTunes専用機となったのであるが、光出力で音を出すとリモコンから音量調節がきかないのが如何ともしがたいのでいい感じのアンプとか買ってみようかとか致し方ないのでAppleScriptの一つや二つぐらいを覚えてみようかと思いきやRemote Buddyなるソフトウェアがとてもよい具合に要求を満たしてくれて本業であるところの情報技術産業におけるソリューションとはいかなるべきかということを若干ほのかに学んでみる。アイコンも手品的にとてもいい具合だ。
結論としてはなかなかMachintoshに何もかもを移行することもできない感じであり、壊れかけノートPCをVistaな機械に買い換え。
しまったMacBook買ってBootCampという手もあったではないか。
桂米朝師匠と筒井康隆の対談「笑いの世界」を読んでいると、ふと「乱調文学大辞典」とかをもう一度読みたくなり、いっそのこと筒井康隆全集が欲しくなる。が、さすがにしばらく我慢。
物理学関係の本を時々買ったり読んだりする。最近も五次元がどうのこうのという本を買い込んでみたが、そこに至る前段階としての三次元とは「縦」と「横」と「高さ」を持つ次元であり、それに「低さ」を加えた次元が四次元であると学んだのは偏にこの大辞典からである。五次元についての本はまだ読んでないので五つ目の次元が何であると説かれているかは知らないのだが、僕の思うところでは「分からなさ」なのではないかと思う。
それはそれとして、上方の育ちの故あろうか落語家というと米朝師匠か枝雀師匠であるのだけれども、枝雀師匠の「笑いとは緊張の緩和である」論ってどこかに書籍でまとまってたりするのですか?と知ってそうな人に聞いてみる。
とか何とかやっているうちに賞与を皮算用してお金がなくても買い物ができる魔法カードが今月も限度額一杯一杯である。
それなんて2/2?という気分であるもののベトナムよりは生存しやすい環境であるがしかし死んだ双子の兄とかはいないはずなので、もしかしてこれでは話が進まないのではないだろうかと不安になる。