とひぶろぐ(続)

だいたい手品日記

2010年09月

本を書く: 体験版を配布してみます。

作品集書く書く詐欺を始めて以来、思い起こせばもう数年になるでしょうか。 この三連休、主として経済的な諸事情により入江田さんの公演とか村上さんのレクチャーとかテンヨー大会とかルディーコビーであるとかを横目にセルフ幽閉の刑を甘受し、折角なので悔しさをバネに執筆を再開したところ、ようやく形になり始め、残すところあと二章分となりました。今年中には夢の印税生活を送りたいものです。 タイトルは「コインと浅知恵」、「基礎からはじめないコインマジック」、「十一枚ぐらいのとらんぷ」など色々二転三転したのですが、「全集」と引っかけて"Incomplete Works"としました。書いている数年の間に自分の好みも少し変わり、何もかも入れているわけではないのですが、今はこれが精一杯な感じです。 紙の本としてどうするか全く未定ですが、ひとまずPDFで電子出版の真似事などをしてみようかと色々考えているところです。それに先駆けまして書き上がっているうちの一部分を、「体験版」として無料公開してみます。といっても、某会員制手品サイトなどに投稿した記事をまとめたのが主で、これまでも無料で見ようと思えば見れたものなのですが、まああれです。フリーミアムという奴です。
Incomplete Works体験版をダウンロードする。
(紙ででる版に準じた物に差し替えました。)
全17章+おまけを3章を予定しているうち、目次と第3,4,5,7,9,11,13,15,16章の9章分を体験版ではご覧頂けます。 手元では18章まで書き上がっており、この連休を使って残る第19章,第20章を仕上げたいところです。 全章書き上がった段階でお世話になった知人には有無を言わさず送りつけますので覚悟しておいてください。 誤字脱字や表記揺れなどがまだまだあるので、欲を言えば校正をしたいところなのですが、中々一人では難しいですね。 続きを読む
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手品を観に行った。

ご近所で、クロースアップの会が催されるということで観に行った。

一言で感想を述べるならばTwitterにもつぶやいたとおり「えらく実験的だった。」といったところになるのであるけれども、見ていて面白い試みだったと思うので、それなりに建設的な事が言えればよいのだけれどもなどと思いつつ、上から目線で、もう少し事細かく感想を述べてみようと思う。


形式は七人の演者が立ち替わり演じる形で一時間弱。三回公演だったが基本的には同じ内容を三回とのことだ。時間としては程よいように思えた。
学生ステージマジックにも似た、一人一素材一手順といった構成で、七人が出演されていた。

これはこれで妥当な構成だけれども、一人当たりの持ち時間としてはもう少しだけ長くても面白いことが出来る。具体的には10~20分程度。
それぐらいの時間になると一つの素材、一つの手順だけで押し通すのは難しくなるので、異なる手品を適切に繋げる、組み合わせる、構成するといったことが必要になり、そのためのよい勉強になる。(一〜二時間一人でやり続ける、とかはやらない方がいいけれどもね!)
全体の時間を長くする、一度に出る演者の数を減らし、その代わり複数回やるのなら誰が出るのかを変える、など色々手はあるので、もし迷いがあるなら色々な形式を試されることをお勧めする。


見せて頂いた奇術はもしかしたら順序がやや前後しているかも知れないが下記の通り。個別の演技への感想も合わせて述べる。
ロープ
BGMに合わせてのサイレントアクト。ロープマジックは率直に言ってしまうと不思議なものとそうでないものとの間にかなり開きがある。あとのほうに不思議なものが来るように並べるべき。また、端の処理も、結び玉を作るのはそれはそれで端が分かりやすくなるが、もう少し綺麗に見える方法もあるので学ばれるとよいと思った。

紐と指輪
こちらもサイレントアクト。不思議さで言えば一番不思議だったか。

エッグバッグ
こちらはオーソドックスに喋りながらのサロンマジック的スタイル。所々に四つ玉的技法を取り入れていたのは面白かった。難を無理に言えば最後にやや焦りが見えたことぐらいか。

メタルベンディング(フォーク)
テストの採点をしながら、といった演劇調。

デライト・スポンジボール
一番素直なクロースアップだった。フィンガーパームした手が固かったなどはあるにせよ、よいと思います。

カップアンドボール
BGM付きで完全にではないが口数少なめでの準サイレントアクト。まるっきりはバーノン的ではないあたりが意欲的な手順を上手くこなされていたが、ファイナルロードに関しては手の甲の向きなどを意識して更に研究されるのがよかろうなどと思う。

ポケットリング
演劇調でしかもサイレントアクトと言うこともあって学生マジックで言う三本リング手順をポケットリングでかつサロンの距離でやられていたような格好。三本でポケットリングをという点に関しては僕も似たようなことをやらないではないのだけれども、最近の諸技法など貪欲に取り入れて、相当上手かった。しかしこの距離でやるならば、観客とのやりとりが欲しかったところ。また、リング以外のものに繋がるパートの方を最後に持ってきた方がプロットとしてはよくなる。

まず第一に、カードとコインを禁じ手にしたのは、意欲的な試みとして評価すべきだろう。それはそれで現象が偏ってしまったきらいはあるが、彼ら彼女らにとってもレパートリーを広げるきっかけになったのではないだろうか。いずれも手品としては数カ所除いて上手くこなされていたように思う。

会場をある程度広くしようとすると仕方ないことではあるのだが、クロースアップと言うよりはむしろサロンマジック的であり、更にまた、いわゆるサイレントアクトや、演劇調の演技が目立ち、クロースアップの距離で学生マジック的ステージマジックを見た気分にもなった。


そして彼ら彼女らにも自覚はあるのだろう、あまりそれらが、少なくとも昨日見た限りではクロースアップマジックに対してプラスになっていなかったように思えたのが正直な感想である。

入江田さんのマジックを見たときに近いことを懸念したが、ちょっと違う。手品自体に比べて、サイレントや演劇的に行う表現技量であるとかが足りていなくて、ボトルネックとなり引き下げているように思える。
おそらく余程手品を見慣れているという人でなければ、あれは奇異に目に映り、違和感の方が強いのではないだろうか。
その違和感を和らげる工夫はあり得る。
オーソドックスなスタイルから始め、途中に少し挟むようにするであるとか、あるいは「場」に、(暗転や舞台袖を作るなど頑張ってはいたけれども)更にもう少し手を入れるであるとか。

『暗くない暗転』など多分に符牒的であり約束事の世界なのだが、そういったことが受け入れられるかどうかは普通の会議室でやるか、少し胡散臭い空気をまとった小劇場でやるかといった「場」の問題も大きい。
極論すれば、舞台と言えないまでも、少し高くなっている「壇」があるか無いかだけでそういったことはかなり変わる。つまり非日常的演劇的虚構の導入のため、観客席と演じる自分との間に線を引くのである。(勿論、例えば大道芸など、そういった『場』の力無しで非日常を演じられる人もいるが、頼るのも一つの方法である。)

あまりやり過ぎるとテーブルで差し向かいで同じ場で楽しむ、といった「クロースアップ的」な風情は無くなってしまうのだけれども、確かに先に何かがありそうな気はするこの方向で進めるのであれば、検討されてみては如何だろうかなどと思った。


僕の頭の中にあるクロースアップマジック像と一致するのはスポンジボールぐらいであったかも知れない。そのために色々「悪かった探し」をしてしまった気はする。

しかしながら迂闊にはこれを否定したくない何かを感じた。
それは「最近の流れはこういうのなのではないか?」といったところから来る、自分のセンスが古びていることを吐露してしまうことになるかもという怖れかもしれないが、それ以上に、彼ら彼女らが自ら何がよいかを考えて、それを試行錯誤することにこそ価値があるように思える気分から来るもののようである。
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将棋の本を読んだ。

梅田望夫「シリコンバレーから将棋を観る」読了。

以下感想。

将棋と言えば下手な将棋を数年に一度指すか、時々思い出したかのように軽い詰将棋をやるか、あるいは人工知能であるとかゲームプログラミングへの仄かな興味から、その手の本を読むぐらいである。7六歩とかが出てくる度に都度都度、駒の動きを頭に思い浮かべたりといった器用なことは出来ないので、面白みは分からないだろうと思っていたが、そういったところは読み流して尚、それ以外の部分を思ったよりは面白く読めた。
四段の人からこういうこととか、編集者の人からこういうことを言われなかったら決して読まなかった本だろうなと思うのでお二人とあとTwitterには面白がれた分だけ感謝している。

しかし将棋を観て楽しむには、ゲームプログラミングで言う盤面の評価関数を持たねば難しいと実感した。平たく言えば、優勢か劣勢かが分かる能力である。

王手が掛かっていたりなんかしたらさすがに分かる。だからこそ、こういう逆転劇は観て面白いのであるが、そう滅多に起こるものではなく、おそらく野球は観ないが珍プレー集は好き、というようなものだろう。(運動は観るのさえ嫌いなので、どちらも観ないけれども。)

基本的には序盤・中盤は無論のこと、投了図を見てさえ、どうして勝負が付いているのかよく分からない残念な棋力の持ち主である。

現代社会を生き抜く上で、無くては困る能力では決してないので、そういう能力がある日突然降ってこない限り、その能力を欲することも、また身につくこともなく、やはり下手な将棋を数年に一度指すか、時々思い出したかのように軽い詰将棋をやるか、あるいは人工知能であるとかゲームプログラミングへの仄かな興味から、その手の本を読むぐらいであろうな、などと思った。

それはそれとして、最近の将棋報道は棋譜を読めずともWebで見る分には盤と駒がヴィジュアルに動かせたりする。音楽で言えば楽譜読むか音で聴くかの違いに近い。決して演奏するのではないにしても。こういったことはおそらく本にもあった「無限の情報量を使って解説を分かりやすく」ということの一例であるのだろう。情報技術の使い方として、素晴らしいことであると思う。

感想終わり。


以下、奇術と将棋とを見比べて。

どちらも生きていくのには必要ではないことに無闇やたらと知恵を絞るところでは共通しているが、その世界の構造はまるっきり違う。特にプロの世界において、誰からどのようにお金を貰うか、どのようにして、プロになるかなどが。

あまり詳しくはないが将棋漫画を読む限りでは、タイトルや奨励会など、向こうはかなり「作られた世界」の中で成立しているような印象がある。

奇術は勝負ではないとはよく言う。そうでもないともよく言う。どちらであるかは分からないが、将棋ははっきりとまず第一には勝負である。また、奇術を観て楽しむのに必要な知識はそれこそ将棋とは比べものにならないだろう。その辺りがそういった違いを生み出している一因であるように思う。違うから良い悪いというものでもないけれども。

しかし一つ羨ましいのは向こうには抜群に頭の良さそうな人達が集まって存在することである。奇術の世界にそういう人がいないわけではないが、表だって見えるわけではない。また、そういった人たちを若いうちから一カ所に集めて蠱毒の如く競わせるような仕組みは多分奇術の世界にはない。多分。

なので奇術界も幕府とか新聞社の庇護を得てそういった仕組みを作ればよいと思った。
嘘である。
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